大判例

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大分地方裁判所 昭和33年(わ)145号 判決

被告人 吉弘明

主文

被告人を懲役三年に処する。

但しこの裁判確定の日から四年間右刑の執行を猶予する。

押収にかかる出刃庖丁一丁(昭和三十三年領第六十五号押第一号)は没収する。

訴訟費用は全部被告人の負担とする。

理由

(犯罪事実)

被告人は本籍地の中学校卒業後、製パン職人見習、洗濯屋の店員等をなし、昭和三十一年十月頃より、父幹三が番頭として働いている別府市北浜松屋旅館の番頭見習として住込みで勤務しているものであり、一方甲斐野チドリ(当三十二年)は昭和二十年頃一度結婚したが一年余りで夫と離婚し、その後は神戸市、別府市等で旅館の女中をなし、昭和三十二年十一月頃前記松屋旅館に住込女中として勤務するに至つたものであるところ、同女が前記旅館に来てから二、三日後の夕刻、被告人が誘つて映画見物等をした後、右旅館の一室で同女から求めて、被告人と肉体関係を結び、爾来同女からむしろ積極的に働きかけて被告人の部屋に行つたり、一緒に外泊したりして情交関係を重ねたゝめ、間もなく同旅館内で、この二人の関係が知れ渡り、その上チドリ自身の旅館の勤務状況も良くなかつたこと等から昭和三十三年一月頃同女は松屋旅館から解雇され、別府市泉町泉丈旅館の女中として勤務するようになつた。然し乍らその後も同女は被告人を電話で呼出し、共に外泊したりしてその関係を続けているうちに、被告人は女性として初めて交渉をもつたチドリに強い愛着の念を抱くに至り、同女との結婚を真剣に希望し、これについて自己の両親に同意を求めると共にチドリにも結婚の意思を告げ、自己の両親に会うことを頼んでいたし、被告人の意向を知つた母よし子もチドリに会うことを望んでいた程であるが、一方チドリとしては当初より愛慾に任せて被告人と情交関係を続けて来たものの、同人は自分より十年余りも年下であり、且つ自分は既に結婚したこともある身であるので、内心においては被告人を結婚の相手となるものではないと考え、結婚の話を真剣に考慮せず、そのため被告人の母に会うことも躊躇していたところ、同年三月中旬頃に至り、チドリは所詮結婚できる相手ではない被告人と何時迄も関係を続けるのは同人並びにその両親に対して心苦しいと感じ、はつきり手を切るのがお互の為と考え、別府市を立去ろうと思うようになり、被告人に対しては「別府で働く処もないので大阪にいる弟のところへ行つて其処で働き度い」という意向をもらしたが、被告人は同女と離れ難く行動を共にすることを望んだので、チドリも一応二人で大阪に行くことを約束し、同年四月五日頃前記泉丈旅館を辞め、その頃より被告人と共に別府市内の旅館を泊り歩き、更には大阪行きの旅費等を工面するため、両人で大分県竹田市に赴いたりしたものゝ、思うように金も出来ず、且つ被告人の父や知人の石井孝子などから、今二人で上阪しても生活のめどが立たぬと言つて思いとどまることを勧められ、チドリ自身も前述の如く結婚できる相手ではない被告人と二人で上阪する気持にもならず、出来ることなら一人で大阪に行かうと思つたが、被告人が得心しそうにもないので、去就に迷つていた。そして同月十四日二人は別府市向浜流泉荘に一泊し、上阪することの約束を為し、翌十五日同市花房旅館に置いてあつたチドリの持ち物を荷造りし、両人で別府駅に赴き大阪行きの乗車券(昭和三十三年領第六十五号押第二号)一枚を買い、同駅より前記荷物をちつき扱いによつて発送した後、被告人は松屋旅館に帰つて旅行の仕度をなし、別府桟橋でチドリと落合い、来合せていた石井孝子と話合つている際、チドリは同女から、しきりに大阪行きを思いとどまるよう勧められ、自身も前述のように被告人と共に上阪する決心がつきかねて、被告人に対して「自分一人でひと先づ上阪し、後からあなたを手紙で呼ぶからその時に来なさい。」と申向けたが、被告人は容易にこれを承知しないので、その日は一応出発を見合すこととし、同日午後四時頃、被告人ら両名は同市行合町中間通り三丁目旅館乙姫荘こと田中清三郎方に赴き、同家二階奥六畳間において話合つているうち、被告人はひたすら愛着している同女が一人で上阪しようとしているものと感じて自暴自棄のようになり、同女に対する恋慕の情絶ち難く、いつそのこと同女を殺害した上、自分も自殺しようと決意し、同市行合町十六組雑貨商田中みね子方より出刃庖丁一丁(昭和三十三年領第六十五号押第一号)を買求め、同日午後五時三十分頃前記六畳間において右出刃庖丁を以つて同女の左頸部、顔面部、上肢等を十数回突刺し因て即時同所において同女を右刺創に基く左頸動脈切断等による失血のため死亡させ、その殺害の目的を遂げたものである。

(証拠の標目)(略)

なお被告人及び弁護人は本件は、被告人が被害者甲斐野チドリの嘱託を受けて、これを殺したもので刑法第二百二条の嘱託殺人罪をもつて処断さるべきものであると主張し、弁護人はさらに仮りに被害者の嘱託が真意に基づいたものでなかつたとしても、被告人において真実の嘱託があつたものと誤信したのであるから同法第三十八条第二項の適用により嘱託殺人罪の限度で処罰さるべきであると主張する。

よつて按ずるに前掲各証拠に徴すると、被告人と甲斐野チドリとの恋愛関係が判示の如き経過で進展し、本件犯行直前、乙姫荘に於いて、チドリはこれ以上別府にとどまる意思はないのに、被告人が同女一人で上阪することを承知しないため、かねて内心に被告人との関係を速かに清算したいという気持があつたのと、その場の措置に窮したところから、一時逃れに、被告人に対し「大阪に行つて自分の職があるかどうかわからないし、又別府にも居づらく、あなたと結婚もできないから一緒に死のう」と言い出したことは推認できないことはない。

然し乍ら、同女の判示のような心境から当時被告人との関係を絶つため単身別府市を離れ大阪に行こうという意図があり、被告人の同行を思いとどまらせるよう説得していたことも、証人石井孝子の当公廷に於ける供述などから看取される。

そして同女の性格、経歴等や泉丈旅館を辞めてからの行動全般等から見て、当時同女は被告人に対する或程度の責任感もあり、同人の一途な恋情には相当に困惑した立場には在つたと思われるものの、その期に至り死を選ばなければならない程の理由が合理的に首肯されず、更には死に際し、通常合意心中に見られる遺書とか、手足を縛るなどの方法を講じたと認められない情況から判断すれば、チドリが前述の言葉を言い出したときには、同女に真に死のうという意思はなく、被告人においても本当に合意心中をする迄のことはしないだろうと思惟し、いさゝか自暴気味にもなつており、一時逃れのために発した言葉であると推測するに十分である。

次に、被告人としても同女の従来からの言行からして、その真意は同女一人が上阪しようとするにあることを感知し、自分一人がとり残されると思つて動揺した気持に在つたことは認めるに難くなく、乙姫荘に赴いてから、同女より突発的に一緒に死のうと言われても、何らその真意をただすことをしないで、出刃庖丁を買い求め、真ぐそれを以て同女を刺しているのであり、更に証人田中清三郎、同田中あやみの第三回公判調書中の各供述記載によれば、その際被告人は庖丁の刃を上に向けてふりかざし、被害者は悲鳴をあげ助けを求めていた事実が認められ、しかも医師小池親鑑作成の鑑定書によれば、被害者チドリには身体の各部位に十九ヶ所の深い傷があり、特にその左右手指の傷は同女が相当抵抗したことを如実に物語つている。

かくて被告人がチドリの前示言葉の真意を感知し、自己一人がとり残されようとしていると思うことにより自暴自棄的感情が爆発し、むしろ同女を殺害して自らもその後を追うという気持が生じたことが十分窺われるので、被告人がチドリの前述の言葉が真意に基づくものではないことを充分知つていたものであつて、殺害することを嘱託されたものと誤信したものとは到底認め難く、被告人の当公廷並びに司法警察員及び検察官の面前におけるこの点に関する供述や、被告人が自らも死を決意して受傷している事跡によつては未だ右認定を左右し得ないので、該主張は採用しない。

(法令の適用)

被告人の判示所為は刑法第百九十九条に該当するから、所定刑中有期懲役刑を選択し、被告人を懲役三年に処し、年令、境遇その他諸般の情状に鑑み、刑の執行を猶予するのを相当と認め、同法第二十五条第一項第一号を適用してこの裁判確定の日から四年間右刑の執行を猶予することゝし、押収にかゝる出刃庖丁一丁(昭和三十三年領第六十五号押第一号)は被告人が本件犯行に供用したもので被告人以外の者に属しないから同法第十九条に従つてこれを没収し訴訟費用は刑事訴訟法第百八十一条第一項に則り、全部被告人に負担させることゝする。

よつて主文のとおり判決する。

(裁判官 岡林次郎 奥輝雄 芥川具正)

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